1870年(明治三年二月十八日)に近隣の寺院からのもらい火で焼失し仮本堂であったが、第三十九世則成大和尚のときに新本堂の建設計画がなされ、昭和七年に完成したのが現在ある総檜造りの本堂です。
広さは約百二十坪。東京の大井設計事務所の設計で、その指導のもと佐々木喜平氏を棟梁とし、当時のいわきの大工さん達が建築に携わり、建築費用は当時三万余円でした。
さらに、2009年(平成二十一年)、社寺工舎により屋根・瓦修復工事を行いました。
なお、本尊は釈迦牟尼仏坐像(百センチ)作者不詳ですが、鎌倉時代の作であると伝えられています。
1992年(平成三年)、改築。
さらに、設計士は梵寿綱氏による現代建築で、総工費3億余円。
檀信徒の年会忌法要で使用されている他、法話や、写経会、茶道、書道、組紐教室などでも使用しています。
戊辰戦役戦没者として、戦死した官軍の22名の志士が眠っています。
戊辰の役の時に、平潟に上陸、浜街道(六号国道)から進軍する官軍からすると地理的に平城の入り口であった当寺は、司令部や病院として使用されていました。
平藩主安藤公は天領川前から川内へ背走、相馬で投降(慶応4年7月13日落城)。
当時の戦闘も最後は抜刀、切り込みであったといいます。
現在の山門は、平城の裏門であったものを戊辰の役後に檀家総代である山崎家から寄贈をうけ、移築したものです。
葵の紋と日連子の紋(寄進者であった山崎家・屋号塩屋の紋)が彫り込まれています。
戊辰の役の時の弾痕の跡があり、その時使用された大砲の弾も残されています。